往復書簡7の佐藤拓実の質問に応え、井口健がはじめて生い立ちを文章にしました。4回にわけて公開しています。最終回です。

久米事務所

 小生は札幌工業高校を卒業し、久米事務所に就職を決断した時点で大学への進学の夢を改めた。勤めて2年目の事務所の観楓会での会食の席で、小生に本橋所長が「井口、歌え」と言われた。

 素直に当時大流行していた「おーい中村君」を歌った。先輩たちも歌うのかと思いきや・・・沈黙!宴は進み、ホロ酔いとなった小生!口をすべらせてしまった。「大学を出ようが出まいが要は実力だ!」と言っちゃった。翌日の朝、先輩が「井口君、株が上がったぞ」と言われた。

 小生は仕事中に時に居眠りすることがあった。所長が「井口君、受験勉強をしているのかなぁ!」と言ったのが耳に入った。

 ある年、丸善が本の売り込みに来た。持参されたのは『桂離宮』、立派なケースに納められていた。小生は会社に買ってくれないかと進言したのである。

 本を開いて頁をめくりながら仕切紙をもうクシャクシャにしてしまった。買ってくれるかと思いきや、買わないというのである。キズ物にしてしまった。高価な本を返すのに困った。しかしやむを得ず買うことにした。その後、丸善から会社に電話が来たという。「社員が本を買ってくれたのだが・・・代金を支払ってくれない」苦情だった。その後、アルバイトをして何とか支払った。

今金町とのつながり

 小生は百年記念塔の完成を待って久米事務所から独立した。小生が独立できたのは、小生を息子のように面倒を見てくれた特急印刷社の中山社長さんのおかげです。所有されていた「大通ビル」内に事務所まで用意してくれたのです。天上に召された社長に深謝です。合掌。

 今金町でも多くの建物を設計させてもらった。今金町で仕事があると実家を宿代わりにしていたのであったが、ある日のこと、母と話している時に、小生の顔を見て「父さん」と言った。ビックリした。他人にも父によく似ていると言われていた。 

 平成元年に「さっぽろ今金会」が結成された。計らずも小生が会長に就任。設立総会に150名程が出席された。懇親会で新覚吉郎先生にお逢い出来た。先生は全道展の会員であることを知った。

 今金の統合中学校の設計を河端町長さんの指名で担当出来た。生徒の正面の玄関の壁面に小生はコンクリートのはつり面とレンガの割肌の組み合わせのレリーフを制作したのだが・・・題名は『躍動』と名付けた。数年後に新覚先生の油絵の作品がレリーフの横に掲載されていた。100号位のサイズである。懇親会ではクラスメートを始め恩師の瀬戸先生や故郷の懐かしい人々に合うことが出来、大へん盛り上がった会であった。小生が10年間で会長を退任させて頂いた時には、会員400名位になっていた。

 小生が会長を務めていたときには瀬戸先生に顧問としてご協力戴いた。先生は役員会の席において、「井口君、今金町の都市計画の第2段をやったらよい」との話をされた。小生は設立総会の挨拶において、この会は親睦を目的とする事を原則として、政治と宗教には関わらない事を話した。行政に口出しすることはしなかった。井村事務長さんの考えもあり、年会費は無しとした(井村次雄さんは北海道教育委員会に勤められ、三岸好太郎美術館の設立のため三岸節子さんに協力、実現に尽力した方であった)。

 今金会10周年の記念行事の折、瀬棚線の路線跡地に梅の木100本植樹を行った。今金町創建100周年記念碑の背面にさっぽろ今金会の記念植樹のことも記録された。副会長の丸山恵敬先生は、当時札幌の丘珠高校の校長の要職にあったが・・・今金高校時代の教え子を育て、将来の今金会を継続する為に育てて戴きたい事をお願いして、会長就任を役員会で提案した。小生は百年記念塔の設計者故の当座の会長との認識で務めていたので、先輩に会長適任者の居る中での、指名と理解していた。役員会の同意を得て退任させて頂いた。

 丸山新会長より感謝状と記念品を頂いた。新道展の会員で画家であったので記念品は絵であった。

「建築家への道のり」完