撮影:佐藤拓実

井口健 様

 拝復、最近の東京は暑い日と梅雨のジメジメした日が交互に訪れて嫌な天候です。札幌はいかがでしょうか。もう肌寒くはないでしょうか。

 井口さんがこの前のお返事で仰っていたこと、とても重要なご見解が含まれていると感じました。なかでも「特定の作品が全ての人間の心に深く触れることはない」というお言葉には共感しました。それを踏まえた上でいかに作品を制作していくのかが大切なのだと思います。

 作品の評価についての井口さんのお考えは、作品がどのような扱いを受けてきたかという文脈(井口さんのお言葉をお借りすれば「足跡」)も評価において、そして「人間の心に触れ深く感動を与える」かどうかにおいても重要である、ということでしょうか?

 ところで、北海道百年記念塔について言えば、開拓使が置かれ北海道と命名されてから百年の「開発につくした有名無名のすべての先人に対する感謝の心と北海道の輝く未来を創造する決意、そして躍進北海道の姿を力強く象徴するもの」(※1)として作られたのでした。当初のプランにあった「石積のマッス」は「開拓の先人の霊の象徴」(※2)、つまり慰霊の意味合いの強いものですが残念ながら実現しませんでしたね。その意味で現在の百年記念塔は未来志向ではありますが開拓の先人への慰霊の側面を失ってしまっています。この点は今日の百年記念塔の評価にも影響しているかもしれません。

 話は変わりますが、何の因果か私は名前に「拓」の字を持っています。例えば電話口で自分の名前の漢字表記を説明する時に、いつも「タクはカイタクのタクで……」などと説明しています。私の名付け親は父ですが、北海道〈開拓〉ほどの大きいものは想定していなかったが自分の道を切り拓いてほしいという願いから名付けたと聞いています。

 昨年ふと思い立って、私は自分のルーツを探ってみました。この北海道島で私が生まれるに至るまで、どのような人の動きがあったのか?私の先祖がこの地に足を踏み入れたのはいつなのか?具体的には、私から両親、祖父母、曾祖父母と順々に戸籍を取り寄せて辿っていく地味な作業でした。書類には本籍地と名前、血縁関係が載っているだけですが、たくさんのことが推測できました。全ての系譜を辿れているわけではないですが、曽祖父母や高祖父母の世代まで遡るとおおむね東北や北陸に行きつくことが分かりました。その中には商売で北海道に来た者もいたでしょうし、土地を開墾するために来た者もいたでしょう。私はあちこちの役所と往復書簡をしたわけですが、私の父祖たちと往復書簡しているようにも感じられました。

 私がこのようなことを調べたくなった理由のひとつは、「開拓」の語を自分なりに捉え直したかったからでしょう。しばしば北海道の開拓事業とそれに付随する民間の動きはその実態を離れて過度に褒め称えられ美化されたり、こき下ろされたりしていると感じることがあります。私は割り切った答えを急がず、良いことも悪いことも知りたいと思っています。

 そこで

「開拓という言葉を耳にしたとき、井口さんはどのようなことを思い浮かべますか?」

と、お尋ねしたいです。

 井口さんは私の祖父と同じくらい歳が離れていらっしゃいますので、実際に明治時代の開拓の様子を地域の古老から耳にされたことなどもあるのではないでしょうか?同じ道産子として井口さんの個人的なご経験を伺ってみたくなったのです。

 末筆ですが、季節の変わり目ですのでご自愛くださいませ。よろしくお願い致します。

敬具

2020年6月29日 初夏の東京から 佐藤拓実

・参考文献

(※1)北海道百年記念施設建設事務所『北海道百年記念事業の記録』北海道、1969(昭和44)年、73頁

(※2)井口健『北海道百年記念塔設計要旨』より