北海道百年記念塔 コンペ当選案 模型

・往復書簡7の佐藤拓実の質問に応え、井口健がはじめて生い立ちを文章にしました。4回にわけて公開します。

子どもの遊び

 幼い頃、手元に積み木のおもちゃがあり遊んでいたが・・・絵や工作も好きであった。ベコ餅の型抜や船や紙飛行機、タコ揚、ミニ琴のようなもの等を作り楽しんだ。一方、川遊び、スキー、スケート、近くの山で散策、田んぼの水路でのドジョウすくい等も楽しいものであった。

 家は日用品や文房具、小間物を売る商店であったが、昭和20年に戦地から無事に復員出来た父は、農機具、建具、家具等の製造業に切り替えた。唐箕の製造を始めた。小生も取り扱い説明部の表示名を入れるのを手伝うアルバイトをした。特許も申請。取得した際に新聞に掲載された。自宅の裏庭の池の横で父の作品と共に小生が父の指示で写真機のシャッターを押した記憶がある。

 父には中学時代に製図板、高校時代には自分でデザイン設計した机を造ってもらった。ハンドル操作で天板の角度を調整可能とした。製図板は現在も手元にあり、パソコンの台としている。

 製図の基本は父から学んだ。墨による烏口の使い方など・・・。中学1年の時に父が書いてファイルに保管していた製図を見て、はじめて40枚程書いた。父は昭和17~18年にかけて大阪の機械製図学校で学んでいた。インターネットで学校の存在を調べたところ「大阪工業技術専門学校」として現存し、問い合わせてみたところ、創立100周年の立派な記念誌を送って頂いた。「井口栄」。昭和18年前期修了とのこと。夏季休暇で帰省中のところを戦地への召集令状、赤紙が来たと母が語っていた。2級建築士の免許証まで取得し、「井口建築事務所」の封筒まで作成していた。

 父は副業に看板等も書いていた。書道の全集も所持していた。ある年、書初めとして「少年よ大志を抱け」というのがあった。手本として示されたのを見た父は・・・「こんなものは駄目だ」といって筆をとってダイナミックな手本を書いた。小生は手本を見て書いて提出・・・金賞をもらった。

 後年、小生の設計ではないが役場庁舎が新築された折に、父は彩色で市街地の鳥瞰図を描き役場に記念として贈ったのであった。

建築家への道のり(2)につづく・・・