・往復書簡7の佐藤拓実の質問に応え、井口健がはじめて生い立ちを文章にしました。4回にわけて公開しています。第3回目です。
札幌工業高校への進学
小生は札幌にあこがれていたので、中学時代に今金中学校から転校し札幌の中学、普通科高校を過て、芸術の道へ入りたいと思っていた。母を通して父に話した。当時、進学の資料ともなる学力テストの成績も良かったので、先生にも大学への進学をすすめられていた。
父は家業を継ぐ為の教育ということで、当然工業高校への進学を望んでいた。協力的であった父は札幌の中学・高校の状況を調べてくれた。叔父が札幌の北区に居たのでその地区の関係校へ小生も同行した。現在の札幌工業高校(札工)の建築科、木材工芸科にも行った。
当時の社会事情が・・・地方から都市への転向を抑制する方向になっているようで、札幌の中学校への転校は難しかった。
結果として全道一区の学校とせざるを得ず、北海道札幌伏見高校を受験することになった(入学した次の年に伏見高校の商業課程は札幌市に移管し札幌創生商業学校と合併、北海道札幌商業高校として発足した。伏見高校は北海道札幌工業高校として復帰した。のちに札幌商業は北海道札幌啓北商業高校と改称された)。
家業を継ぐとなると当然、札工の木材工芸科の志望となる。榎本先生のもとを訪れ父は色々と話を聞いていたが・・・。先生は木材工芸科長の立場にありながら、何故か井口親子に建築科を志望するよう勧めた。「建築科で学べば木材工芸のことは解かります」の一言。その助言を受け入れ、第1志望を建築科、第2志望を木材工芸科にして願書を提出。学校からの合格通知が届く前に隣の呉服屋のご主人が「新聞に健さんの名前が出ていたよ」と知らせてくれた。
父は後年小生に「建築家への道が拓け、今日があるのは榎本先生のおかげだぞ!」と言った。全くその通りである。先生は寺の住職だったそうだ。深謝、合掌。
高校生活
伏見高校が札工に復帰した昭和30年に生徒会の選挙が行われた。よせばよいのに・・建築科から推薦されて会長候補に立候補してしまった。機械科の候補者を破り当選した。しかし、数か月で辞任・・・理由は一身上の都合。「井の中の蛙大海を知らず」それと垣間見た人間の性。顧問の先生の遺留説得を振り切ってやめた。生徒会には迷惑をかけてしまいました。
生徒会長在任中には、札幌西高において各校生徒会の合同会議があった。議題は高等学校文化連盟(高文連)の設立についてであった。翌年、旧大丸ギャラリーにおいて第一回高文連美術展が開催された。美術部に所属していた小生も出品した。
高校三年の夏休みの直前、恩師の渡辺先生に久米建築事務所へ実習に行く事を勧められた。渡辺先生には学校の授業以外で芸術に関する書籍の紹介やアドバイスを頂き、今日に至っている。生涯の師である。
小生は高校に合格した後も、芸術大学進学の意志は捨てていなかった。あまり気のりはしなかったが・・・行くことにした。実習を望んだもう一人の友人と期間の終了に伴い、会社より久米事務所への入社のさそいを受けた。
学校の卒業時期も近づき、久米事務所での面接日を先生により告げられた。何度か延期変更され、気をもんだ先生は他社への就職の話をされたが、進学の意志もあったので、まもなく卒業式を迎え・・・帰省した。ところが、数日して久米事務所から採用通知が実家に届いたのであった。採用通知には「社員に採用し、札幌事務所勤務を命ずる。 社長 久米権九郎 3月25日から出社せよ」と記されていた。後日、北大生の入社希望があった事を聞かされた。
以上のような経過をたどり・・・建築家を目ざして社会への旅立ちとなった。
建築家への道のり(4)につづく・・・